HOWS夏季セミナーでの発言と討論から
職場で強固な労働運動を築き上げるために
直面する困難はなにか、それをどう乗り越えるか


恒例のHOWS夏季セミナーの二日目(七月二十九日)では現場の組合活動家が困難な職場の状況とそれを克服するための実践・課題を報告した。発言と討議の概要を紹介する。当日は元郵政労働者の土田宏樹さんも労働運動再建の方向性について発言したが、ここでの紹介は現役労働者の報告に絞らせてもらった。【編集部】

組織率の低下と当局の管理強化
国公労働者が直面する課題
藤本愛子(国公労連)

わたしは国家公務員だが、所属する労働組合が直面する困難や課題の最大のものは、組織率の低下だ。わたしが主に活動しているのは東京にあるひとつの支部での支部活動だが、この問題は、全国すべての支部に当てはまる。もっとも、大都市圏、特に東京において深刻であることは間違いない。当支部の組織対象人員に占める組合員の割合・組織率は一割を切っている。全国の組織全体で見ても四割を切って三割に近づいている。そして減少傾向に歯止めがかかっていないのが大問題だ。
困難に拍車をかけているのは、当局の管理強化である。国家公務員には労働法の直接適用はなく、国家公務員法が適用されているが、この国公法をことさらに厳密に解釈する傾向が近年顕著になっている。国公法はそもそも「労働組合を抑え込む」という性格のもので、憲法で保障されている労働基本権が不当に制約されている。これは国際的に見ると異常なことで、ILOは日本政府に対して是正勧告を行なっているが、日本政府はそれを無視し続けている。
当局は、勤務時間中の組合活動について一切認めないという態度をあらわにしている。かつては勤務時間中のオルグやビラ配りは一定程度容認されていたが、今はそういった状況ではない。当局は根拠として、国公法一〇一条「職務専念義務」と、以前に農水省でヤミ専従が問題となった一〇八条「給与を受けながら、職員団体のためその業務を行ってはならない」を示している。
しかし、勤務時間中の組合活動について一切認めないというのは誤りだ。国家公務員にも団結権は保障されている。当局は、職場内労働組合が団結権を行使するための最低限の活動を勤務時間中に行なうことについては、受忍する義務がある。そもそも民間であれば労働協約で定めることができる事柄だ。また、日本は批准していないが、ILO条約では「勤務時間中の労働組合活動は保障しなければならない」とされている。
また、職務専念義務がある一方、国公法一〇五条には「職員は、法律、命令、規則又は指令による職務を担当する以外の義務を負わない」として、全体の奉仕者としての義務を課す一方、全人格的に従属するような勤務のあり方を排除してもいる。
いま、組織強化・拡大のために取り組んでいるのは、職場で存在感を示すことだ。労働組合の重要な役割のひとつは職場の民主化であり、職場会活動には力を入れている。組合員のあるいは職場の問題の解決につながるよう努力している。例えば、超勤の上限規制が始まったこともあり、人員が増えない中で、事務の簡素化・合理化は急務だ。早く帰れ、と言うだけの無能な管理職に悩まされている組合員も多い。組合の本部交渉の結果、本省は通達の改正も含めて検討すると回答した。その回答を足掛かりに、各職場で具体的に決裁系統や物品の管理など細かなことを改善させていっている。
また、職場の管理強化のもとで頻発しているパワハラ等への対策も急務だ。ある管理職の下で組合員の男性がメンタル不全で数か月間病休を取得することがあった。事後的にではあるが組合で対応をし、双方が異動して問題の長期化を防いだ。組合員の男性は現在別の職場で通常勤務をしている。しかし管理職は再びパワハラ問題を起こし、下位の管理職が突然退職してしまった。そもそも欠員を抱えた職場がいっそうの欠員で繁忙度が増してしまった。組合では、すみやかな欠員補充とパワハラの解消を求めて、当局と折衝を重ねた。最終的には翌月に欠員を埋めることを約束させ、その間に他部署からの応援も入れさせた。件の管理職は異動することになったが、当局からの指導に対し、「そういうつもりはなかった。パワハラととられたのなら申し訳ない」という程度の反省の弁でまったく自覚がない。異動先に一定の情報提供は行なったが、今後の懸念は残る。繰り返し話を聞き相談にのったことで、当該職場の組合員からは「組合に入っていてよかった」と言われたと聞いている。
もうひとつの事例は、育休明けの女性職員に対して管理職が「短時間勤務させてもらっているのをありがたいと思え」「あなたのせいでみんなが迷惑している」というような発言を繰り返したというもの。本人は育児疲れもあいまって、二週間の病休を取ることになってしまったが、その間に組合で折衝したところそれだけで対応が改善したとのこと。
問題を抱えた未加入者が加入に結びつくこともある。いずれにしても問題が解決したとしても「やめない組合員」になると期待している。


職場組合活動の困難と課題
「階級対立」を見出す実践を
藤原 晃(神奈川学校労働者)

今の職場に異動して三年目。一昨年から分会長を引き受けている。分会の組織率は四割強、五〇代以上がおよそ六割、四〇代と三〇代以下がそれぞれ二割である。この年齢層別構成割合は組合全体でも同様である。わたしが学校労働者になってから一五年目になるが組織率が五割を切る分会は今の職場が初めてである。しかし攻撃が劇的に酷くなったとは感じない。それは、うまくいっているということではなくじわじわと確実に弱体化しているということである。管理職を通じた露骨な組合攻撃はないが、新たな組合員の獲得が難しい。実質賃金は下がり続け、社会保障の削減=年金教育医療費の負担増は実感できるが、これへの抵抗は組合費を供出する(だから「とられる」と表現される)こと以外には実感できない。職場レベルで解決可能な課題には対処できても、県レベル、国レベルの課題への無力感が存在する。これに対抗した労働運動の必要に説得力を持たせられないという困難である。いくら毎年人事院勧告が「○年連続プラス回答!」といわれても組合員はそんなに愚かではない。
年齢層別にみれば、大半を占める五〇代以上の層は労働組合の必要を肌で感じている人が多い。しかし収入と体力の低下、医療費増、親族介護が同時にのしかかる不安を抱えながら組合の路線にたいしては「もっとしっかりやってほしい」と口にする。しかし、行動にはむすびつかず、組合活動への参加の動因も持てない。
二〇〇四年から約一〇年ぶりに教員採用を再開し、ここ数年は毎年数百人規模で新規に採用し、三〇代以下の教員が目立ってきている。あるアンケート調査によると教育観や教育方針についての教員間での議論が「少なくなっている」と回答したのは、〇三年と一二年を比較したとき、約八割から九割へと増加しているが、「管理が強くて仕事がやりにくい」と感じている教員は四〇代以上では約八割と高止まりしているのに対して、三〇代以下では減少しているという。教育論議はしなくなっているが「仕事」のやりにくさは感じていないということである。
〇五年に導入を許した企画会議―総括教諭体制=職員会議の形骸化が定着して以降に採用された層は、学校運営は管理職の言われたままに無批判に実行するのが当たり前となり、そこへ違和感を挟み得る経験を持っていない。つまり自分たちが自分たちの職場(学校)運営の主体であるという意識の希薄。県教委―管理職への対抗意識の希薄。われわれの組織の必要性が実感できない。当然ながら権利と労組の関係もピンとこず、労組への組織化の困難へと影響している。しかし、一方でこの層は大学の授業料を借金し、その返済を毎月六、七万円も天引きされていることも珍しくない。
このように書くと各世代層の不甲斐なさを強調しているように聞こえるかもしれないが、そうではなくて、何十年にわたって「良き労使慣行」という標語に象徴される労組の路線が、職場での抵抗実践を通じて「階級対立」を実感し学び、自らを鍛え資本主義社会の偏見や差別から自分自身を解放する機会を遠ざけて来たのだ。反対にいずれの層も現実生活の困難は増加している。つまり労働組合活動の必要と可能性はなおいっそう強まっている。
日常の分会活動では執行部会から配布される読み物などを個別に組合員に手渡しながら雑談の中で課題を見つけ職場レベルのものは管理職交渉や衛生委員会などで是正させる。ほとんどの校内処置可能な事例での改善はある。管理職はいずれも元組合員であり、そのあたりの感覚をまだ持っている。
最近の事例では、「授業時間確保」の文科省号令により授業にまつわる業務負担増に対して「減単(設定科目を減らす)」の議論を学校として開始させた。ただし本来はこれでは順序が逆である。超勤実態把握のための恒常的アンケートを学校として実施(cf. 学校にはタイムカードは存在しない)。生徒の特別指導時に担当者が早出している(少なくとも三〇分程度の明確な時間外勤務)違法状態の解消の申し入れ。今年度は学期末の成績処理期間が短縮されたが、時間外勤務必至が予想されたので時間割の短縮措置をさせた。
いずれも勤務時間規定に依った「遵法闘争」へと繋がる取り組みをしているつもりである。これをいかにして組織全体の方針へと高めていくか。課題はそこにある。
一九七一年に、時間外勤務手当制度からの教育職員の除外を目的に作られた「公立の義務教育諸学校の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)を繰り返すまでもないと思われるかもしれないがあえて引用する。給特法には教育職員の超過勤務は「政令で定める基準に従い条例で定める場合に限るものとする。」とされ、神奈川県ではその条例の施行についての教育長通知に以下のように書かれている。
「教育職員には、勤務時間の割振りを適正に行ない原則として時間外勤務(休日勤務を含む)は命じないものであること。」
さらに時間外勤務を命ずる場合であっても「臨時または緊急にやむを得ない必要があるときに限る」と濫用禁止を念押しし、さらに具体的四項目に限定している。すなわち(ア)生徒の実習(イ)学校行事(ウ)教職員会議の三つに関する業務。及び(エ)非常災害などやむを得ない場合に必要な業務。である。ここまで法文として明確に書かれていることを実行させることが適わない現状で、どうして「働き方改革」が実効性を持たせうるだろうか。しかもその内容は「労働時間の上限規制」から「残業時間の上限規制」(しかも過労死ラインぎりぎりの)へと明らかに後退させられている。
我々は支配階級により愚弄されている。困難はその自覚が共有できないところにある。
「すべて古い制度というものは、どんなに野蛮で腐朽しているように見えても、あの支配階級の力によって維持されているのだろうことを、改良や改善の賛成者が理解しないうちは、かれらは常に古いものの擁護者によって愚弄されるであろう。」(『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』)というレーニンの言葉を思い出す。かれは続けて階級闘争とならざるを得ない勢力を身の回りから見出して階級闘争へと組織していくことが唯一の手段であると強調している。一〇〇年前の闘争過程での困難と課題が未だに思想闘争課題であることを語っている。
問題は働く側が些細な実践の瞬間瞬間に階級対立を見出すことができるか否か、それを可能ならしめる組織をどう作っていくかにかかっている。


活動家の燃え尽きを防ぐ活動を
ケースワークの方法を援用して
髙井一聴(自治体労働者・ケースワーカー)

全労連自治労連傘下の自治体労働組合の中央執行委員をしている。わたし自身は社会福祉職(ケースワーカー)である。
まず、直面している組織化の困難について述べたい。『社会評論』第一九四号の労働者通信「なぜ労働組合の組織化が低迷するのか」で、その質的な困難を書いた。職場で加入を訴えにくく、職場世論を組織しづらく、労働者多数を思想的にも当局側にからめとられている現状がある。
量的にはどうか。現在、正規職員の組織率は二〇パーセント程度にとどまっている。新採用職員の組織率は毎年一割に満たない。連合発足前後のいわゆる「労働戦線問題」による組合分裂以前には二万人いた組合員が、二九年後の現在は約四五〇〇人に減少した。労戦問題に乗じた当局の介入によって制度化された、組合に脱退届を出すのでなく当局にチェックオフ中止届を出せる、いわゆる〝バイパス〟で、いまも通年で脱退が相次ぐ。当然ながら組合費収入も著しく減少している。恥ずべきことだが、この間、ストライキ戦術を採らず手つかずの救援積立金を切り崩して経営している。今の規模で取り崩しが続けばあと五年で積立金が尽き、労働組合の「倒産」も現実味を帯びてくる。
組合員が減少すれば活動家層が薄くなる。分裂前は事実上のユニオンショップ(新採用者の配属手続きの中で当局の庶務担当が加入用紙を渡す)だったため、業務問題に精通して当局交渉に長けている活動家はいても、一部の例外を除いて、労働者と対話し、労働者の話を聴き、組織した経験がなかった。組織化、オルグに精通したモデル活動家の不在が困難を深めている。かつてわたしは、非組合員、未加入者の道徳が欠けているために労働組合の困難がもたらされていると考えていたが、そうではない。「職場の労働者にどういう役員が待たれているか、求められているか」を役員、活動家が分かっていないことが困難を生んでいるのだ。
では、いま、なにをどのように取り組んでいるか。試していることをいくつか話したい。
ひとつは、ストレングスモデルを援用した組織状況の評価と取組み。これはケースワークの方法のひとつなのだが、たとえば、妻は認知症になった夫の隣で「以前はあれもこれもできたのに」と困惑するが、あとから来たケースワーカーや保健師など援助職は、いま夫に残されている強み(ストレングス)を見いだして援助しようとする。「分裂」前と比べなければ「われわれは四五〇〇人を組織している大きな組合である」と考えることができる。それは事実そうなのである。さきほど触れた〝バイパス〟についても嘆くのではなく、むしろ、当局に攻撃されるわが組合を誇らしく思う。これもストレングスの発見。また、アルコール依存症を例に言うと、援助職は、依存症者を以前の状態に戻すことイコール〝回復〟とは考えない。連続飲酒の前から、発症の芽は既にあったのであり、新しい生き方を手にしなければ、一時的に我慢できても連続飲酒は始まるのだ。新しい労働組合をつくっていくのでなければ回復とは言えない。
ふたつめに、組織化の方法。マーケティングの本で「切り捨てる対象を明確にしないと商品は売れない」と知った。組織化しやすいと感じている職種を優先する。以前からわが組合が相対的に得意とする非正規労働者の組織化に力を入れ、弱い立場に置かれがちな労働者の要求実現をめざす。正規職員に関しては、現業と専門職に重点を置く。いずれも、当局側の価値観に距離を置くことができる職種だと仮説を立てている。月二回発行している組合の機関紙では、毎号一面に顔写真入りで組合員を紹介している。過去一年間に登場した組合員は、造園職、学童保育指導員(関連労働者)、保育士、機械職、保健師、公園整備員(現業)、保育所勤務の非正規労働者、企業局採用の看護師、非正規保育士、土木職、共済組合の固有職員(関連労働者)、学校用務員(現業)、ケースワーカー、事務補助担当の非正規職員。公務員として一般にイメージされる行政職(事務職)は登場していない。
新採用職員に渡すパンフレットもつくりかえた。これまでは「新歓パーティに来て」とか「横のつながりをつくれるよ」などを前面に出していたが、それはやめた。当局のジェントリフィケーション(都市再開発によって地価上昇と住民の中産階層化・富裕化を誘導する)政策に反対し、〝全体の奉仕者〟として住民に寄り添って働くことをめざして、その基盤となる労働条件と住民生活・地方自治、反戦と民主主義のために闘う組合だ、というメッセージを強調した。紙面に組合員が登場して、労働運動を説教臭く語っている。今年、新採用職員の組織率は、低迷しているなりに前年比四ポイント増の一三パーセントになった。組合に入ったからといって狭義のメリットなどないことをはっきり伝え、そのうえで運動への出資を求める戦略は有効だと思っている。
みっつは、これもケースワークの考え方のひとつなのだが、アディクション(ある習慣に不健康にとらわれた・のめりこんだ状態。依存症・嗜癖)アプローチを援用してオルガナイザーの〝燃え尽き〟を防ぐこと。
活動家を援助職、未加入者をアルコール依存症者と見立ててみる。もちろん依存症者には回復してほしい。酒を飲み続けると死ぬこと、回復するための手立てはあることを適切な場面で適切に伝えるのと同じように、資本や当局に絡めとられた生き方と違う生き方があると伝えるところまでがオルガナイザーの役割。当局の価値観に合わせて生きて、死に際に「自分の人生は人間として善き生き方でなかった」と未加入者が後悔して死ぬとしても、その生き方にまでオルガナイザーは責任を負わなくてよい。
援助職は、飲酒し続ける依存症者と話を続けるべきでない。回復しない依存症者を前に、燃え尽きてしまう。しかも、中途半端なおせっかいが依存症当事者の力を奪う。援助職が安否確認を続けると、飲み続けていても安否確認してくれるから大丈夫と依存症者を勘違いさせてしまう。「残業大丈夫? 顔色悪いんじゃない?」と未加入者を毎日訪ねてはいけない。自分の経験によって考えを変えて労働組合を訪ねてくる兆候が見られるまでは放っておく。援助職の養成課程で〝ホットケア(放っとけや)〟と習った。信じて待つのが、熱意ある援助職の温かいケアの仕方なのだ。
このアディクションアプローチが順調にいくかどうかはわからないが、わたし自身が燃え尽きないでいるし、ほかの援助職活動家が試した支部でも新採用者を多数獲得している。
最後に、青年に学んだこと。「飲み会だったら労働組合に入っている意味がない」。コンパの会費のほうが組合費よりも安い、と言われればそのとおりだ。学ぶ場所がなければ、加入した意義は感じられない。そこで、いま、そういう青年の地方自治研究活動への接近と模索を援助している。青年に関心があることがわかれば、機関紙や討議資料において「職のあり方」や「市政の評価」、「運動の成果のわかちあい」、「生産点の闘いの方向」について執行部側も見解を示すことをためらわなくなるはずだ。


●発言を受けての主な討論
状況打開の糸口を求めて

 今日の髙井さんの報告と配布資料の組合機関紙や新歓パンフレットには「全体の奉仕者」という用語が繰り返し出てきます。この全体の奉仕者論と常にセットでわたしの記憶によみがえるのは、一九七〇年代前半、日教組に対する政府および独占のイデオロギー攻撃としてかけられた教師聖職論です。日本共産党が聖職論を支持するなか、日教組は一九七三年に全一日のストライキを打ちますが、共産党はそこから脱落する。教師聖職論は、共産党の側からのストライキ否定論だったわけです。われわれの先輩で、都教組墨田支部の支部長を永年務められた内田宜人さんがスト否定論批判の先頭に立って理論闘争を挑んでいた歴史があります。
その後、教組や自治体労組でストライキを打てる体制は大きく崩されてきた現状があるわけですが、報告者のみなさんは全体の奉仕者論をどうお考えなのか、伺いたい。

髙井 教師聖職論との関係で全体の奉仕者論をどう考えるかという議論はあると思っていますし、そのことに対する警戒を怠るべきでないと考えます。そもそも全体の奉仕者だからということを口実に公務員の労働基本権は剥奪されているわけで、そこから目を逸らすべきでない。
ただ、自分たちの職場、生産点で、押しつけられてするのではなく自分たちで仕事を組み立てる、それは職場の支配権を確立することだと言っていいと思うのですけれども、その拠りどころになるのはなにかと考えたときに、全体の奉仕者ということの下からのとらえ直ししかないのではないかと思っています。つまり、住民の生命や生活を危険にさらすような業務の押しつけの前にはストライキを打たざるを得ないというとらえ方もありうる。団結しなければ全体の奉仕者としてのあり方が全うできない、という関係だと思います。
全人格的にではなく、わたしの職場の勤務時間で言えば八時三十分から五時十五分まで、全体の奉仕者という労働者になっているというとらえ方のほうが、労働者としてのプロ意識という意味からも、わたしは階級意識につなげやすいのではないかと思います。

藤原 聖職者という言葉は、自分を顧みず職責を果たせというメッセージが明確に入った支配階級のイデオロギーです。それに比べると、全体の奉仕者の「全体」は人民と読みかえることが可能ですよね。労働組合がしっかりしていれば、人民の奉仕者という階級的イデオロギーに結びつけていく余地がある。わたし自身は全体の奉仕者という言葉は使わないけれど、「自分の仕事はなんのためにあるのか」という意識と「自分は労働者である」という意識が結びつくような方針が労働組合になければならないと思う。

藤本 報告では人事考課制度の話はしなかったのですが、わたしたちは国家公務員として国民、利用者のためにチームで仕事をしている。人事考課でだれの評価が上だとか下だとか、そういったやり方は公務の仕事になじまない、そういう問題意識から「全体の奉仕者」という言葉を使ったりすることはあります。

 一九五〇年代末の教員への勤務評定制度導入反対闘争の中で日教組が「教師に勤務評定はなじまない」という論を展開したことがありました。住民組織や父母、地域の労働組合にオルグに入っていったとき、民間で働いている労働者は多かれ少なかれ勤務評定、人事考課によって差別と競争を余儀なくされていたわけです。そのような状況にあって「教師だけは例外だ」とする論理が本当に連帯をつちかい共同闘争を展開する思想たりえたか、という批判的検討もありましたね。

 「全体の奉仕者」という用語は歴史的に形成されてきたものですから、新しい考え方で活動していくとすれば、新しい言葉を作り出すべきだと思います。
 髙井さんはケースワーカーですね。保健師、保育士、あるいは教員などと同じく一定の公的資格に結びついた職種である。そういう職業意識というか職能意識、そういうものを拠りどころにした労働組合運動、当局との対抗という観点が、髙井さんの述べられた組織化の戦略に含まれていると思いました。われわれの先輩にも、職能意識を出発点とした労働者意識の形成の議論がありましたが、教師聖職論との闘いなどの過程で、そうした発想は聖職論にからめとられてしまうのではないか、という葛藤もあって、論議としてじゅうぶん深められてこなかったと思います。

 わたしは税務職場にいました。かつて、一九五〇年代後半から六十年代前半ころ、国並みの税務手当を要求する激しい闘争がありました。その闘争を背景に、税務の仕事は通達、通知に基づくものが多いわけですが、事前に全部「案」として労働組合に提案させ、組合が同意、承認したものを通達、通知させていました。ところが他部門との人事交流、異動の拡大や主任制度導入などで、末端の税務職員の専門性、特殊性といった要素を当局じしんが否定していった。事前協議制は七〇年代、八〇年代にどんどん奪われていって、組合の闘争力、職場の支配権も失われていった。いま、それをどう作り直していくかという課題があるわけです。髙井さんは、現場で活動し考えている若手活動家や労働者にどう働きかけていくかという観点で報告されていたわけで、共感を持って聞きました。

藤原 髙井さんの報告の「ホットケア」、援助はするけれども深入りしない、自分の仕事はここまで、というのをちゃんと押さえておくという話がありました。わたしは、それは労働者意識の確立にもつながる話だと思って聞きました。わたしは「残業を平気でするのは悪だ」と言わなければいけないと思う。法律違反というだけではなく、対価など求めず生徒のために身を挺して働くというのは、労働力のただ売りです。労働力をただ売りすれば労働力の価値はどんどん下がっていくわけだから、悪と言わなければいけない。

 一九八〇年代、当局は「公務は行政サービスだ」と言い出した。公務労働がどんどん営利的なものに置き換えられ、たとえば委託化がすすみました。行政、公務というものを、労働組合の側がきちっと理論的に位置づけて運動を展開できなかったために、競争の原理に巻き込まれて運動が負けていった。同時に公務員攻撃があおられ公務員の運動が孤立させられて、現在に至っています。公務員の労働をどう考えるかということについて、かつての理論闘争なども含めて改めて整理する必要があると思いました。

 青年がそれぞれ持っている力を見逃さない、いま苦しい状況だからこそ、そこを分析し点検して成果をつくっていき、次の活動につなげていく、その中で青年たちの内発的な問題意識を学習につなげていく。青年たちの知性に信頼して任せる場をつくっていく。そういうことを志しているのが分かって、とてもよいと思いました。現状を突き崩すエネルギーを持っている部分として、現業労働者や専門職層など職場をコントロールしていく力を持っている部分に可能性を見いだしているというのも、なるほどと思いました。

司会 組合活動家が直面する困難と、どう取り組んでいるか、実践的な報告がありました。また、単組、支部、分会それぞれのレベルで労働組合として当局との交渉、折衝や協議が行なわれていて、けっして一方的にやられてばかりではない、という現状も明らかにされました。
しかし、われわれの職場や労働組合の内側にも外側にも広範に未組織の労働者が存在し、日本全体では八割以上が未組織です。その人たちの要求や生活の困難といったものを、今、労働組合は代表できていないということを直視しなければなりません。
その克服に向けて、土田宏樹さんからは企業を超えた労働者の組織的な連帯、連携ということが実践的な構想として報告されました。もちろん、これも困難な課題であって、日本の戦後労働運動が企業別労働組合の限界を突破しようとしてきた取組みがあり、蓄積もあり挫折もあったわけです。その歴史的な経験からも引き続き学んでいきたい。

(『思想運動』1044号 2019年9月1日号)